青年期から現在に至るまでの道のりとその過程を深く掘り下げる4万字に及ぶ
爽遊 (さわゆう) ・大澤雄介 ソロロングインタビュー!!(前半)

インタビュアー:asian gothic label掛川
じゃ、早速ですけども宜しくお願いします
はい、宜しくおねがいします
Asian gothic labelからリリースされたということで、どういう経緯でユウテラスを出そうということになったのかをお聞かせください
はい。16,17年前にthe band apartと松山サロンキティという僕の故郷である愛媛県のライブハウスで対バンをさせてもらったときに原昌和と出会いました。お互いに印象に残っていて。それから15年の時を経て再会をしました。それで、なんだかんだと遊んでるうちに一緒にバンドをやろう、せっかくやるならユウテラスをやろうという事にお互いなり、自分たちで録音してデモテープ出そうという話になりました。その時にまぁちゃんが『アジゴシから出すのはどう?』と。僕たちでよければということで、僕がずっと大好きやったバンアパのレーベルから出すという。そんなちょっと不思議な現在地となっております。
最初にバンアパと対バンしたっていうのは、大澤さんたちが地元愛媛でユウテラスでライブをやっていて、バンアパがツアーで来たみたいな感じの対バンですか?
そうですね。Eric.Wの5曲入りの頃じゃないかなと思うんですけど。バンアパが地方だとまだお客さんがまばらな時で。だからすごいレアな時代だったと思います。
その時他の対バンは?バンアパが東京からツアーバンドみたいな感じで来て、地元のバンドでユウテラスの名前で?
そうですそうです。他にも仲間出てたんです。詳しくは覚えてないですけど。その前から僕は岡本ってゆうリミテッドレコードにいた岡本って奴と僕つるんでて。バンアパはそいつから紹介されて知ってたので。だからもうやる前から大好きだったっていう。それでユウテラスとの対バンオファーいただいて。
それは岡本さんですか?それとも地元の?
当時八木という店長、通称〝アニキ”がいたんですけど。その連絡が来て、ご指名が来てるから、お前出ろみたいな。八木さんが出ろということで。わかりました、是非にやりますと。
その頃ユウテラスはもう地元で活動してて、どこからデビューしたりとかっていう、何かCD出したりみたいなのは、当時してたんですか?
そうですね。一番最初は池袋アダムっていうライブハウスの人がやられてるINGレーベルさんから『青春ジェット』という曲が入った5曲入りのマキシシングルみたいなのを出させてもらってました。
ちなみにユウテラスの結成は何年に?
1996年に弟とお兄ちゃんと三人で作ったんです。
そうなんだ、大澤さんは三人兄弟の真ん中?
そうそうそう。ニュージーランドやカナダにいたので、そこで三兄弟中心で、友達が流動的に入れ替わりながらやってました。日本人もいたし白人もいたし。男女性別もバラバラ。バンドというか遊び場みたいな。それで愛媛今治に帰省した時にライブをする為に地元の同級生がライブメンバーとして入って活動し始めたのが、今のユウテラスのはじまりはじまりです。
へー。ちなみにそうユウテラスという名前で海外にいたときもされてた?それともその時は何かもう遊びじゃないですけど、そういう感じで?
そうですね。実は高校生の頃、ガレージを三兄弟で改造して、スタジオ経営みたいなことを、その流れで始めたんです。背中を押してくれた母親のおかげですけど。あっちにいる、いわゆるレコードデビュー狙ってるバンドとかはみんな録る場所がない、練習スタジオがない、お金もない、だから、割とガレージ改造して苦情受けながら過酷な環境でやってるんですね。だからレコーディングスタジオあるって聞きつけたら、すぐコンタクトくれるんです。デモテープ作りたいからって。だいたい僕はアルバム一作200ドルとかで受けてて。一緒にコンセプトから考えながらレコーディング4トラックのマルチレコーダーで録音していくっていう。
MTR的なね?
そうそう。MTRは当時カナダバンクーバーの危ない下町とかまで、兄と買いに行くしかなかったんです。やっぱ海外ってあるんですよね。チャイナタウンの隣とか。すぐ銃とかナイフを持って人が出てくる。そういうとこ行かないと安く買えないわけです。そういうとこにお兄ちゃんと行って命からがら手に入れたものでやってました。で、その機材代が490ドル。
ははは!でもしっかり回収したくらいの。意外とそれこそバンアパの木暮もカナダにいたんでニアミスしてた可能性が。
木暮くんは別の町みたいです
街が違うんですね、なるほど
日本のコミックスとか、お菓子やご飯を売ってるようなお店が入っている中国系のマーケットが沢山ある街の方かなと。ダウンタウンの。そういうのがある都会に近い方の町。僕はちょっと離れたラングレーという田舎町にいたので。
なるほど、へー!正式日本に帰って来られたのはいつなんですか?
18歳の時に卒業して帰ってきて、それまでにもユウテラスのライブは帰国する度に結構やってました。その時に地元の大会で僕らオリジナル楽曲賞を頂いて。審査員をやっていた元大手レコード会社の方が『メジャーデビュー目指す道に行きませんか?』って言ってくださったんですけど。弟が辞めちゃったんでダメでした
なるほど
弟が辞めると僕1人じゃどうにもならないんで、もう結局話は消えて。僕は大学を目指しました。
そうなんすね。その頃から大澤さんは一応もうギターボーカルというかは、ポジションは変わらずに?
弟とツインボーカル、共同制作みたいな感じでしたしね。1人では続けても片割れがいるだけなんで。続けても仕方ないなということで18歳で止めたんです
で、その後は音楽からちょっとしばらく離れたみたいな感じなんですか?
そうですね。夢がJAMSTECっていう深海とか海洋調査する会社に入るか、JAXAに入って宇宙飛行士になるかだったんで
めちゃめちゃ理系というか方向性が音楽とはわりと真逆の
ただ、当時日本の帰国子女の大学の受け入れ枠が非常に狭くて。選べる学科がすごく少なかった。選択肢があまりなくて。それで結局行けなかったんです。センター試験も挑戦したんですけど、頑張ったけど落ちまして。うちは18歳で家でなさいっていう家だったんで、“お金は受かってからどうにかしなさい”と言われ仕事しながらやるわけです。それで情け無いけど、結局挫折して。諦めて暇になったから、1人で今治ジャムサウンズというライブハウスに通って。宅録やってたらそのテープをライブハウスの人がダビングしていて、ビクターさんのオーディションに送ってくれたんです。
あーそのスタジオの人が!
そしたら最終選考まで受かっちゃって。結局ダメだったんですけど。そのとき同じオーディションを受けた人たちは今でも活躍してて。
世代的にそれこそバンドアパートと大澤さんは同い年で99年とか98年とかのそれくらいですかね?
はい。で、それをきっかけに、レコード会社の人達がライブを観に今治まで来てくれるというので。なら1回ライブしますっていうことで。仲間みんな集まってくれて。
そのときのデモテープは弾き語り?
バンドみんなで録ったヤツらでした。その時の一応YouTubeの方に、カッコ悪いかもですけど『BEETLE』『SAMURAI SURF』『撤退』って曲達載ってるんで良かったら。うん。みんなで宅録で取って、今治ジャムサウンズの兵頭さんと一緒に最後ミックスして、メーカーさんに提出して。みたいな。
そのときにメンバー集めて実際ライブをやって、結局ダメでしたけど、バンド結成してその後どんな感じで活動してたんですか?
なぜ駄目だったか?にもすごく関係するんですけど、一番はまず僕がプレゼンライブをした2日か3日後に脱退したので
笑笑笑。それはどういう?自分で結成して自分で脱退したみたいな?
僕らみたいな田舎の子たちって、東京とか大阪の人たちみたいなリアリティを持ってないんです。今治までレコード会社の人達が来るなんてやっぱりUFOが突然上空に現れるのと同じですから 笑 僕たちはもうそのライブ1本を奇跡みたいな体験として消化するしかない 笑 だけどやっぱそのリアリティのない話なんで。僕も含めてですけど浮かれるでもないし、壊れるでもないし、なんかもう単にボワってしちゃってるんですよ。頭が、ずっと。
なるほど
そうなると人間関係もおかしくなるというか。これでデビューして人生変えるぜみたいな人とか。やっぱりちゃんと親の期待に応えて就職したい人とか。漠然としちゃってる人とか。バンドとしては覚悟が出来てないままやる感じには当然なりましたからね。リアリティがないから実感もないし。うん。結局それでばらけて、僕が知らない間にメンバー同士が恋話で揉めて喧嘩になって殴り合いとかなっちゃってるわけですよ 笑 もうそれが嫌で。もうやめちゃって。みんなの気持ちはすごいわかったんだけど...僕も割と当時怒りっぽい子だったんで...
若い頃みんな尖ってますからね
そうそうそう。何かそういうのがだせぇみたいな。で僕、結局ピザ屋とかで働きだして
もう自分は辞~めた!みたいな
音楽なんかやらん、もういっぺん大学を目指そうみたいな。
もしかしたらそういうのがなければそのまま本当にビクターと契約になってた可能性も
正直、今治のライブの評判がレコード会社の人にはあんまり良くなくて。それでも『東京でライブを入れたら見に行くよ』と松本さんと言う今治まで観に来てくれたビクターの方が、焦燥感に打ちひしがれつ 笑 がっかりしてる中でもそう仰ってくださったので。その年の12月に東京でライブやって結果だせてれば引き続き見守ってくれてたかも?とも思います。デビューが決まったかどうかは別として。あくまでも可能性ですが、その後も気には、かけてくれたかもしれないです。あくまでも“かも”ですけど。でもやめちゃったので。夢は終わり。僕そこから、QY70って当時打ち込み機械が新発で。それを手に入れて、いじり倒しながら、ピザ屋でバイトして、家に友達らがたむろして、毎日飲み続けるみたいな 笑 いわゆる田舎の若者をやっておりました 笑
僕も長野の田舎出身なんでわかります。そういうたまり方しますよね
思えば音楽を職業にしたいとか、どうしたいって事を考える脳が僕にはなく、なんとなくバンドやって、オーディション出れて、声をかけていただけて、なんとなく夢心地でやってるだけみたいな。僕は結構パッシブというか、アクティブじゃないんですよ。元々が受身タイプなんで。
だからその頃ギラギラして、絶対俺たちはメジャーデビューしてみたいな感じで音楽をやってたわけじゃないって事ですよね。
はい。ただ、もの凄くこだわりが強いんで。この一音が良くないことに異常に腹が立つタイプで。だから偏屈、頑固、わがまま 笑 嫌なオタク理系タイプなんです、多分 笑
そういう作品作り、自分が作り出すものにはものすごくこだわりを持って、それが売れる売れないとかって結果は別としてそういうものをちゃんと作りたいみたいなのがあるっていう。
そうですそうです。売るっていうのはやっぱりお任せするのが一番いいんですよ。僕らは作ってやるのが好きなんで。例えばMVやジャケットを作るのも制作としてやってるっていうよりは、全部作品作りとしてやってるので。作るまでが仕事で、本当は他の部分はお任せしたいかなと 笑 ちょっと話それました 笑 なんでまた始めたか?ですよね?
20歳ぐらいですよね?
これまた同じで。ビクターさんのオーディションにデモテープ送ってくれた今治ジャムサウンズの兵頭さんが背中を押してくれました。
かなりお世話になっている人ですね
そうですそうです。ぼくの師匠みたいな人で。『紹介状を書くから思い出作りにツアー行ってこい』と。『経験してこい』と背中を押されて。今でもすごくすごく感謝してます。けど、それが結構無茶なんです!それが4月だったんですよ。で、7月の終わりから結構ロングな初ツアーが決められちゃうわけですよ。兵頭さん鬼だなと思いました 笑 しかもベースのマコトという奴と2人なんですよその時。刺青入ったシドヴィシャスみたいな奴で、つるみ仲間なんですけど。2人しかいなくて。これどうすっかな?っていうときに今のドラムの阿部佳小利さんが『私やる!』と。
阿部さんも地元が今治で古くからの付き合いという。
はい。ただ問題なのは曲がないわけですよ。5人編成から3ピースになって、ビクターさんのライブでやった曲はもう1曲もやりたくなかったので 笑 せっかくツアー行くならジッタリジンみたいな曲やりたいよねと。〝ジッタリンジンを黒夢がやった”みたいな事をしたくて!
笑笑笑!歌い方はビジュアル系だけど曲はパンクみたいな!
そうそう、それがやりたいなってなって。ツアー初日が2000年の7月28日の神戸だったんですけど、7月21日にスタジオ入りました。もう本当に馬鹿野郎なんですけど
そのときに何曲作った?
3曲一気に仕上げました。それは『新ユウテロ』というマキシシングルに入ってます。その中の一曲がまぁちゃんも初めに好きだって言ってくれた『青春ジェット』という曲で。全然ジッタリジンになりませんでしたよ...全然ならなかった。全然ならずにちょっとビジュアル系ぽくは出来ました!ははは。僕ビジュアル系好きなんで、LUNA SEAとか好きなタイプなんで。当時は黒夢が1番好きだったんですけど。
これ話が脱線しますけど俺も黒夢、LUNA SEAめちゃめちゃ好きでした。
そうでしょそうでしょ?清春さんとか、もうライブ通い狂ってましたからね
当時は黒服着てライブしてたわけではないですよね?
パンキッシュだったじゃないですか?後期の清春さん。僕は当時、見た目はただのヒゲが生えたライブハウスにいそうな普通のお兄ちゃなんだけど、ビジュアル系のユニセックスなところがすごく好きで。それをやりたい!と思ったんです。これは昔も今も変わってなくて、ユニセックス、バイセクシャルがユウテラス。宇宙で考えたときにね、アダムとイブって分けられるじゃないですか。その中間のユニセックス。ユウテラスって英語で《子宮》って意味なんですけど、生まれてくるときっていうのは、男子でも女子でもなくて。命なんですよ。この世ににある全部、目でに見える事、考える事、発する事、生命は全部子宮からくるので。それが僕のバイセクシャル、ユニセックス。ユウテラス。
それじゃ相当核の部分っていうか、割と音楽的にもビジュアル系もあるしジッタリジンもあるしそのなんとも言えない中間の部分というか
ただジッタリジンにあるあの素朴な宮沢賢治感というか、その童歌感というか、ガキだからこそ急に格好付けたくなる、背伸びする、けどあどけなさが未だ残る自分への劣等感が、逆にすごい愛おしく感じれる瞬間に出会えたみたいな。あの魅力、厨二病感に未だ僕は虜です!
結構おもしろいですよね。ジッタリジンと黒夢という全然違う角度からの音楽性というか方向性みたいなところが1番親しみがあるっていうね。
好きなのはカートコバーンやニルヴァーナだったりジョンレノンだったり、精神にはそれがあるんですよ。お爺ちゃんの影響で美空ひばりさん好きだったり。でもバンドやるとなると黒夢とジッタリジンが大きかったっていう
へぇ? ちなみにその手前の5人でやった最初のオーディションの時のユウテラスの音楽性てどんな感じだったんですか?また全然違う?
ネオアコースティックな雰囲気で。コーネリアスとか小沢健二さんとか。それこそちょっとわざわざ派手目にしちゃったフィッシュマンズというか 笑 そういう野暮な感じもある田舎育ちが雑誌観て、イメージしたまんまのネオアコって感じで 笑 それを自分らなりにニルヴァーナぽくやったというか。
90年代に影響を与えた音楽ですもんね
フィッシュマンズの佐藤さんもユニセックスな人でふわっとしてて中性感があるけどすごい強いというか。凄いシンパシーを感じてました
当時そうゆうのが多かったのかもしれないですね。それこそメタルをやってるのに化粧をしてるとか
今もそうですけど髪の一部分だけシルバーアッシュにしたり、金髪にするの流行りましたよね。ホストっぽいみたいな。もう今ね、髪薄くなってできない笑 人生のダメージを受けたんで。
俺も昔はストパーかけて笑笑
今僕やったらオタクの人がスカスカのままロン毛にしたみたいになっちゃうんで
俺もおでこが広く笑笑
King Gnuの常田くんが一途のMVでパーマな髪型でマイクにかぶりつく様に歌ってるのって凄くかっこいいじゃないですか!僕がかぶりつく様に歌うと今日機嫌が悪いのかな?とか、言われるだけ!みたいな 笑
何か怒ってるのかな?みたいな 笑
そうそうそうそう。King Gnuって長野じゃないですか?鍵盤ピアノと絵を書いているめいまるはお父さんが長野の信濃町で。同級生がジブリの音楽やってる久石譲さんみたいで。だからお父さんから聴かされて、久石譲さんの話聞いて、曲を聴いて育ってるんで。こういうふうにユウテラスに入ってきて...って!かなり話が脱線しましたね 笑
そうですね。初のツアーっていうところにまた立ち戻りましょう。ツアー前に3作曲でき上がって。ちなみにその音源を物販用にCDにしたとかはせずにもうそのまま裸で3人でツアーに出たみたいな感じだったんですか?
デモテープを撮りました、青春ジェットの。それをライブと音源で聞いてもらってINGで出せることになるんですけど、評判もそこそこ良くて。割とすぐ広がってくれて。そこでb.e.tというバンドに出会えて。スモーキンてバンドに出会えて。ガガガSP、メガマサヒデに出会ったりして行くんですよ。次の年、2001年6月24日の今治ジャムサウンズでやったレコ発に出てくれたりもしました
ちなみにそのツアーは何本ぐらいライブあったんですか?
月に8本9本
めちゃくちゃやりましたね!
僕、それまでにバイトでお金120万ぐらい貯めてて。それ全部投入して。もうこうなると家賃も払えないんで、親父が酒屋を当時やってたんですけど。そこの倉庫を5000円で借りて。鍵かけられないんですけども 笑 5000円で倉庫住んでました。
すごい!若いからできるんだね、それは。
ツアーの移動だけじゃなく、知り合えたみんなと飲んだり遊んだりするじゃないですか。そうすると月20日間くらいは愛媛にいないっていう
東京とかはどの辺でやったんですか?
アンチノックとか、ラママもやりましたけど...ちょっともう思い出せないです 笑
当時はどういう流れでツアーきっかけでCDデビューになったんですか?
池袋アダムでライブに出させて貰えた時に、社長が見てくれてて。ススと寄ってきて『出そうよ』と仰ってくれました。不思議な雰囲気、セクシャル、お洒落な方で。真冬でもタンクトップにベルボトムでカッコいい社長です。あと、そのライブの時、PAさんがルースターズやミッシェルの音響スタッフやられてた方みたいで。僕らライブ終わって、汗かいてるから外に出るでしょう?そしたら階段からその人がバーッと追いかけてきてくれて「お前絶対続けなよ?」って言ってくださって。「大江や千葉とどっか匂い、感じした」と言ってくださって。だから絶対辞めるな、やれと。だけどお前はきっと売れるのすごい難しい。理解されにくいとも。だけど絶対辞めるな、君なんかあるから。苦労すると思うけど頑張って続けてよ?と仰って頂いて。嬉しかったですね。それで最後は決めたって感じなんですけど。あれからお会いしてないんですよ。僕またその方にお会いするのが夢の一つなんです
そうですよね。
今、僕が言った事、もし盛ってたらすいませんと謝ります。けど、ぼくにはそう聞こえたんで。でもびっくりしましたよね。そんな事言われたからキョトンとしちゃうわけです。ライブ前に話してたわけでもないし。感謝は勿論、びっくりしました。
ライブを観てそう思ってくれたわけですよね。
そういった流れの中で、周りの方の背中押し、ご縁があってCDを出させてもらえました。けど二枚目のCDを出すのが難しくて。なぜなら社長は『青春ジェット』をシングルで出したかったみたいなんですけど、僕は話も聞かず、強行で5曲入りを出してしまいましたから...社長には本当にお世話になったので、今でも申し訳なく思ってるんです。当然その後の道はすれ違ってしまいました。その後は他のレーベルからも多少なりお声はかけていただいていたんですけど、あまりに若造であった僕は当時、相手や環境のせいにして身勝手に傷心してましたし、まずは自分達で結果ださなきゃ自分が殺される!みたいな。未熟さにありがちな衝動で 笑 そんな利己的すぎるヒステリーを発動した結果、カナダに渡って『大人抹殺』というアルバムを2週間かけてレコーディングしました。
それは自費で?
自費で行きました。1人7.5万円出して飛行機で行きました。当時はアメリカ同時多発テロの直後で。報復の可能性があるから危ないってチケットが奇跡的に安かったので。スタジオ代は借金して機材は良いのバンバン借りてきて。兄が住んでた一軒家でレコーディングしました。
そこで何曲録った?
14曲録って。それから今治に帰ってきて宅録で1曲録り足したのが、まぁちゃんの大好きな『僕の学校においでよ』ですね
うぅーん、なるほど!
結局、今代表曲みたいになってる曲ほど、お金をかけた曲ではなくて宅録の曲なんですよね 笑 青春ジェットもそうですし。うん。
良い音のほうがもちろん良いのでしょうけど初期衝動みたいなのの良さがあるんでしょうね。
かと言って、あのアルバムはカナダの湿気とか湿度の中で、雪が深々と降り積もる中でレコーディング行ったので、音が日本で録るのとは違う魅力があるんですよ。しかも一軒家だからスダジオの音の反響とは違う。
その時期、そのタイミングでしか録れない音が『大人抹殺』という作品にパッケージされているんですね。
当時の僕は海外に日本語のまま進出したくて。もしかしたら海外に帰りたかっただけかも知れないですけど。そんなこんなで海外で録りたいていうのがまず、すごくあったんです。今考えればどっちで録っても結果は一緒なんですけどね
いや、でもそういうこだわりとしてあればもちろんね。
当時からレコーディングで歌とか演奏を直すのが嫌いで。聴いてる人には関係ないかも知れないけど、ソフトの性能技術としてボカロと一緒でタイミングや音程を全部直したり、変えたり、遊べるんですよ。
そうですよね。
でもそれは別に卑怯なんではなくて。礼儀だと思うんですよ、買ってくれる人への。キチンとした工業製品を手渡すってことになりますし。うん。だからユウテラスの作品はライブCDぽい訳です。そうなるのは僕にとっては音楽、曲はその時その瞬間の日記、記録の感覚で、それを書き直すのって変だから。製品として保てるギリギリで、なるべくそのまんまを入れたいと。本当に馬鹿野郎なんですけど。
いや、そういうのが音楽のおもしろさで、正解というのは無いじゃないですか。正解って作り手がこういう形で出したいていうのが1つの形だと思うので、そういのってある意味こだわりですよね。
ビートルズやニルバーナがそうだったのも大きいと思うんですけど。当時は良いのが録れるまで繰り返しやるしかなかったんで。その生感を僕はすごく今でもやりたくて。ロックンロール、パンクは必然生々しいものなんだから、みたいな。ならもうリテイクするしかない。うん。それで、だからそれをやりたくて。それをやって帰ってきて、たくさんのレーベルさんもオファー段階で、その契約にまで至らなかったんで、お名前を出し出すことはできないんですけど。すごく評価いただきまして。別に椅子決まってるわけじゃないんですけど自分たちで取りたい音を拾って帰ってきたみたいな感じで生じたんだってことですね。その中で一番熱意あるお話をくださったのは奥村さんというワーナーミュージックの方で。すごい一生懸命、大人抹殺が素晴らしいって言ってくれて、一生懸命事務所も探してくれて、本当に親身になって一生懸命やってくれました。本当に奥村さんと、僕はお仕事させていただきたかったんですけど結局は叶いませんでした。それから何年にもわたって解散までずっと、ずっと僕らの面倒を見てくれてました。今でも申し訳なく想うくらい感謝で一杯です。やっぱり当時、バンドメンバーみんなで契約ってすごく難しいことで、特にユウテラスは、バンドみんなでの契約っていうのは一度もお話はいただけませんでした。
その時はメンバーは初期の3人とゆうことで?
いや、その時々のメンバーがあまりに流動的で増えたり減ったりしてるんですけど、やっぱそうメンバーに流動性があると、事務所さんもメーカーさんも僕とソロ契約をと、どうしたってなってしまうんです。。
そうですよね。
僕は、その轍を断ち切れなかったです
それは、うーん。逆にそのこだわりは、本当はどういう理想だったんですか?
やっぱりバンドみんなでメジャー契約とって。うん。ちゃんとバンドとして、ユウテラスとしてのデビューしたかったです。
バンドのユウテラスとしての契約を取りたかった
そうですそうです。
ただまぁ会社としては、あまりに流動的すぎるから、じゃあこの契約書にはこの名前で入ったけど、この人が来たらこれとか。また契約しなきゃいけないって言うことになるのも、まぁ大変だって言う事もありますよね
あとまぁ良く言われてたのは、僕が専属の作曲家をして欲しいから、関連のアーティストの作曲をしながら生計を立てたりとか。給料、その本体は少ないですから。作曲家業でプラス出して、会社に利益還元して。今みたいにある程度やりたいことを、そのメジャーの世界でやればいいんじゃないか?っていう提案はよく頂いてました。奥村さんなんかは事務所も頑張って決めようとしてくれてました。けど僕がその...メンバーも一緒に行けないんだったら...と最後にはお断りさせて頂くことになり。
うーんうん
うん。で、あれはメジャーデビュー出来なかったことを今回しているというよりかは、本当に奥村さんにすごく感謝と申し訳なさがすごく今に至っても、ずっと僕に一つの呪縛になってます。やっぱ自分は。。はい。
ただ、だから大澤さんはやっぱバンドとし、バンドっていうもの、すごく人の集合体としての音楽をすごく最優先されて、多分このレーベルとか事務所はやっぱ大澤さんっていう、このなんていうんですか?個のアーティストをとゆうかね。。そのね、だから中々うまくまとまらなかった部分があったっていうのはね、それはもう昔の話ですから。今は全然ないと思うんですけどね。
解散が実際2013年5月なんですけど。それまではもう奥村さんもずっと気にかけて通ってくれてました。だから解散ライブは来なかったですね。ほら、だってもう辞める奴のなんてね。怒りますよね。そんなの 笑
今までねずっとね...怒るというかは、気持ち的に見れないって事もあるんじゃないんですか?解散しちゃう悲しさみたいな。いろんな感情が多分あるんでしょうけど。
当たり前だと思いますよね。別の人生行こうとする人間を、なんて声かけるかっていう。。関わらないのが愛情かもしれないすよね。
もう逆にそうですよね。さっきのもう好きすぎて殺しちゃうじゃないですけど 笑 もうどういう感じで見て良いかわからないとか、奥村さんもいろいろあったでしょうね。
ユウテラスにはLOVEって大切な曲があって。それのタイトルの名付け親は横村さんなんですよ。ライブ見に来てくれた後に、渋谷で一緒に飲んでて。僕は一つ前に"あなた病気DEATH"ってアルバム出して。あんま売れなくて。流通会社切られちゃって。そのときはショックだったけど頑張ってライブやってて。奥村さん観に来てくれて、飲んで酔っ払ってて。僕にLOVEって曲作れよと言い出す訳ですよ 笑 お前はジョンレノンだろ?だからジョンレノンはLOVEだろ?って 笑
LOVEって曲一杯ありますもんね 笑
笑笑 覚えてますよ。渋谷の道玄坂のね、あの居酒屋のトイレの前でフラフラになりながら壁に手をつきながら 笑 うちのスタッフの女の子と僕がいるとこで"爽遊はLOVEだよ。爽遊はジョンレノンだから"って興奮して普段すごく物静かな奥村さんが割とありえないくらいの大声で話してた姿を思い出す 笑 それで僕もすごく素直なもんだから。神戸に帰って、また酔っ払った勢いで20分で作って。
すごいっすね 笑
酔っ払たまま携帯に録音してて。歌詞もそのままで。
へぇ?
僕、普段歌詞は紙に起こさないです。もう頭ん中だけで。
え?...そうなんすか。それはもう頭の中だけで?
そう。だからレコーディングする時はさすがに忘れるから書くけど。。
へぇ!すごいっすね
だから複雑な歌詞絶対覚えられないんです 笑
笑笑
だから何でライブの時に歌詞を置いてるかと言うと、僕は1回言葉を脳内から取りだすとほぼ完全に消えてしまうとゆう 笑
なるほど、確かに此間のFEVERで見たときに、歌詞を全部床に散らかしていくんだなって 笑
もはや自分の部屋なんす 笑
笑笑
もうそう、だから、結構そういうのあります。歌詞はエピソードを自分の中から追い出して記憶を外部ハードディスクに記録してるみたいなとゆうか。思い出とか棄ててくみたいな。例えば花火って曲は...たくさん聞いてくれてる人いてくれてるんですけど。僕は彼女を亡くしてて。身体中刺青だらけのへんてこりんな女の子で。田舎育ちってアルバムで1曲歌っちゃったりしてるんですけど、そいつ。志穂ってやつなんですけど。その思い出とかユウテラスの歌詞には結構でっかい幅利かせててムカつきます 笑 うん。それに元奥さんや猫たちとの思い出が本当に大切で。花火はジャケットが元奥さんと僕の手で。だからやっぱり、その、残したかったんですよ。俺はこんだけ求められたとか、そういうくだらない事じゃなくて。ちゃんとその時間を一緒に本気で恋して生きていたんだって、どっか何かに残したかったんじゃないすかね。
なんかこれ、それこそ新しくユウテラスに入ったパンアパ原もね、なんか彼も曲は日記みたいなもんというか、そうゆう考え方で。何かね?こう...爺いになったりとかした時に、自分のアルバムとか曲聴いて"あぁ、この曲ってこういうときだったなぁみたいな。そういう感覚なんですかね?なんかこう、この作品作った時はこういう思いだったし、こういう人とこういう関わりしてたなみたいなのが、いつまでたっても多分死ぬまで思い出されますよね。
そう。だからそこはもう、まぁちゃんと本当に同じだったんです。ただ一つ違うらしくって。原がよく言うのは"お前は恥ずかしいことを平気で言う。好きとか。君じゃなきゃ生きられないとか。"って
うふふふふ 笑笑
誰もがそうでしょうけど、僕にとっても誰かを好きになる、その人と時間を、生涯のその時間を共にする...となると...まぁ命がけなんですよ。特に僕は人生それ全てなんで。まるや猫たちともそうです。逆に原のまぁちゃんは、その家族、恋人、友達含めた色んな...その青春のポートレイト、青春の記録で。照れ屋なあの人の歌はいつも僕にはそうゆう感じがしてます。
なるほど青春のポートレート、青春の記録なんですよね。
だから僕は彼の曲聴くと涙出るんです
なるほど。逆に原さんが青春だと、大澤さんはどういう感覚ですか?
恋なのかも!!恋をするということは生きるってことじゃないですか?生きてやる!じゃないすかね
なるほど。人生って言い方だと、ちょっと変な感覚...生(せい)と、いう事なんすかね?
そうですね。例えば、よくネットとかで、皆さんが書いてることに解る事があって。"生まれてくるのが選べたわけじゃない。親を選べたわけではない"とか。最近そういうの書いてる人が最近多いですよね?
あぁ、最近は確かにそうですね
あれ"産んでくれただけ感謝しろ"とか結構文句言う人多いけど、僕も親や親戚とは色々あったから。当時を振り返れば、解る部分もすごくあります。今は両親にはすごく感謝してるんで嫌な感情はなくて。愛情しかないですけど。うん。けど、何才になっても、若ければ尚更、気持ちを吐き出したくなる人だっていて当然だとも思うし。そうゆう生と死への疑問、クエスチョンマークは常にどっかベースにあるとは想います。うん。
なるほど
いろんな事があって。その一文だけで、本当はどんな関係性があって、どんなつらいことがあったり、お互い色んな諍いがあったかは、その一部分ではわからないんです。今なんかは敢えて、周りの人が言っちゃうってことで、便乗してる人もいるだろうけど。気持ちは僕もわからんでもないです。僕はやっぱり親との喧嘩の歴史が僕の歴史なんで 笑
なるほど 笑
親父が寂しがりで。暴力でしか自分の気持ちを表現できない人で。昭和って時代もあったでしょうけど。所謂典型的なDV家庭で。母も殴られたりしてて、福祉事業者が入って事務所が入ってみたいな。僕も何回も命やばかったってぐらい5年間殴られまくりの毎日で。親父から弟を守るため、なんですけど...毎晩五十発とか 笑 12時まで血だらけで外に立たされてりとか。「生まれてきて迷惑。早く死ね」とか毎日言われてましたから 笑 それでも、僕みたいな奴ってあの当時は昭和ですし割とそんなのはクラスに二、三人は当たり前な家庭の感じやったんですけど。今の時代じゃもう親でも家族の通報で逮捕されるのが当たり前ですよね 笑あの時は、いつか年数経てば年取って身体もおっきくなって、どっかで力も並んで、いつか最後には俺は親父に勝つ、ぶっ飛ばせる日が来る!と思って毎日虎視眈々とその時を待ちながら、殴られてましたよね 笑
確かにそうですね 笑笑
だから今の子たちって本当に辛いだけかもしれないすよね。。なまじやり返すと、今度は自分が逮捕される側になるだけ...とゆう社会倫理がスタンダードだから、今。
その場の現実だけで辛くなっちゃいますよね。。そういずれおやじをぶん殴れる瞬間がね、高校生ぐらいになったらくるんじゃねぇか?とかね 笑笑
そうゆうのありましたよね 笑 そうゆう幅、やり返せる幅がまた救いでもありましたし。うん。ただ、やっぱり僕の場合はそのPTSDっていうのが残っちゃったんですけど。PDって要するにPanic Disorder。パニック障害、PTSDってちょっとそれの強めのやつ。消防士さんとか、お医者さん、看護師さんとか、事故にあった人とかなるやつ。うん。
うん。はい
フラッシュバックしてパニックになる。過呼吸なったりとか。今はもう日常生活では全然支障なくなってきましたけど、やっぱ親父とか親戚の心無い言動が幼い時にトラウマとして脳裏に刻まれて、残っちゃったっていうのは、やっぱり生きてくだけでさえ、デメリットだと思うんですよね。
はい
僕なんかは殴られる痛みより、その映像を覚えてて。視覚的なもの。殴られた時に見えるあの火花を覚えているんですよね。そうそう。痛みは逆に全然覚えてないです 笑 その目の前の火花とか、なんとなく映像を、自分の血で染め上がったTシャツとかは、よく覚えてたりして。
あぁ、視覚的なものを寧ろ... でも確かに痛みって記憶にないですよね
そう。結局のところそれがPTSDで何か発動装置が生まれて。突然脳内再生される映像残っちゃった。わかりません?
あぁ...解ります、何か。
だから僕は、その時の体験から生まれたPDが、形として音楽の形、表現に出てしまったし、人間関係にもちゃんと出ちゃう訳で。相手が悪くなくても、ある一定の心の距離まで知らない人から、ずずいと土足で入られると、僕その人嫌いじゃないのに、ちょっと過呼吸になってパニックになったり。うん。僕の書いた曲を聴いてくれる人達は、いろんなこと悩んでる、ちょっと僕に近い人多いから、嫌な思いさせてしまってる事も多いし、それでも理解してくれてるんで、ありがとう、ありがたいという気持ちは強いですね。。お返しできればいいんですけど。うん。
大澤さんは大澤さんで、いい曲作って。それがどうかはわかんないすけど、例えば、同じような経験してる人には、こういういい曲出せるんだ、産み出せるんだっていうので、もしかしたらね、何かの誰かのきっかけになるかも知れない。それはわかんない。
そうですよね!!てか、やっぱ掛さんもそういう割と経験を...?
いや、僕はちょっとね笑 もう本当にインタビュー載せられないような経験ありますから笑 だからそうそう...そうですね。でもまぁ、人それぞれやっぱり色々なので。ただ順風満帆な人生だけ送ってきた人なんて誰一人いないですよね?それをね、どう表現してくか、どうやって生きていくか自体はもう、その人それぞれになるから。逆に大澤さんがそれを曲にして歌うっていうことの意味かな?とか思いながら
嘘つかないようにしてるんですよ。ちゃんと自分に起こった実話で曲は作ります、僕は。うん。僕みたいな経験してる人ってこの世の中には沢山いるし、一人じゃない、僕だけが特別じゃないって実は僕自身にとっても心強いんですよ。うん。僕ファンのこと君っていうのも、それは僕の人生は僕と君だからなんですよ。僕と君は当然対等だし。ぼくらはひとりじゃないってゆう
うんうんうん
僕と君でアダムとイヴなんですよね。うん。その二つが合わさってユニセックスってゆう一つの全能が生まれるっていう、僕のイメージあるんです。
うんうん。丸い輪が重なってる部分とゆう
はい。けど単にさっきのPanic Disorderの反発反応の話や、恋や生を歌ってると言えど、僕にだってやっぱり照れくささはあります。
まぁそうですよね 笑 そんなに透かし切れる訳でもない 笑
うん。なんだろうな...僕は単純にSEXって好きな子とはしますけど、好きじゃなければしないです。だから、やっぱりそこもすごく問題があって。嫌いなんでしょ?って誤解された時に、僕は君が嫌いじゃないよ?好きだからだよ?って。ただ相手に安心して欲しいのに。その想いを確実に伝える方法ってない。音楽、曲なら多少は可能性あるから歌うことに未だに執着して、すがってるんですけど 笑 本当、好きを伝えるって真面目に難しいなって。
はいはい
それもあるから。結構メッセージくれる人で、男子たちには僕もすごい気さくにやるんだけど、女子ってやっぱりマリア様だから。照れくささがすごくある 笑 親父がいなくなってからは母子家庭、母絶対家庭育ちだから。余計に女性を敬うのが当たり前だと育てられたから。うん。
お母さんは、ものすごく優しかったっていう感じですか?そうでもない?
スティーブジョブズみたいな母で 笑 今も世界を股にかける教育家というか、いわゆる実業家なんで 笑
じゃあ相当バイタリティのある?笑
そうですそうです 笑 母親はそうです。だから、まぁちゃんと話してると、うちのお母さんと言うことがすごいそっくりで!!
へえ
本当にお母さんに叱られてるみたいな気分になります 笑 やっぱりそういう人と出会うんですよ。不思議なんですけど、人生って
やっぱ僕もこう、おじさんになってきて分かりますけど、やっぱ母親はね。もちろん父親は父親ですごいですが、母親ってすごいなっていうのがすごくいっぱいありますよね。やっぱり
あります。だけどまあ、もしかしたら掛さんもあるかもしれないですけど、僕、実はそう、お父さんが仕事せずにお母さんがずっと仕事して、僕らを育ててくれたんで、やっぱりお母さんと会うことがないわけですよ。だから僕、おばあちゃん子だったんですよ。
なるほど
だから、お母さんとおばあちゃん二人でひとつのワンセットでマリア様っていう女性像のイメージがあるんですよ。
実際に生んでくれたお母さんと育ててくれたおばあちゃんみたいなね。
そうそう。だからやっぱり何でもう1回戻ってきたのかって言われると、やっぱそのおばあちゃんとの約束は大きいですね。
どういう約束だったんですか。
『大人抹殺』ってアルバムを作った時に、僕が何でわざわざ海外まで行ったかっていうと、勝負かけてる訳じゃないですか。おばあちゃんとの約束を守りたいが為だけに。契約取る前に自腹で何十万も経費注ぎ込むとゆうか。今考えたら無茶すぎるんですけど
自分で自腹切って、もしかしたらね、もう無一文になって帰って来るだけかもしれないと
そう。帰ってきてももうたぶん、みんな家すらもないかもしれない。そんな状態で勝負をかけたのは、おばあちゃんがちょうど癌といわゆる白血病で、だんだん体が弱ってきて、その時はもう僕が誰かもギリギリわからなくなり始めてて。何でその時におまじないをかけたんですよ。おばあちゃんが病気を治すのが先か、僕が売れるのが先か、勝負だって。だけど...
おばあちゃんとはそうやって直接会って?
はい。会いました。最後は覚えてなかったんですけど。ただ、僕が来ると笑顔になってくれてましたね。だから、それが縁で、そのときの悔しさがあって、その後、僕は介護福祉士取るんですけど
なるほど
そうそう。だけど関係者、イベンター辺りの人達から「ユウテラスにレコード会社からアプローチが5社くらい今ありますよ。」って。そんな本当か?嘘か?解らないような話を聞いた時は、もうおばあちゃんが亡くなる数日前でしたね。
なるほど
それで、おばあちゃんが亡くなって、急に糸がぷつんと切れちゃいました。ほんならやっぱり、付いてきてくれてるメンバーのみんなってやっぱ、先頭で引っ張ってた僕みたいな人間が、そういう風に糸が切れると辞めていくもんなんで
それが何年ぐらいの話ですか
2002年ですね。あれはやっぱりもう、あれが人生のターニングポイントで
だけど大澤さんはまだ24歳とかそのぐらいですよね。かなり若いですよね。
そう、だからその当時ですね。バンアパと対バンしたのが2002年なんで、おそらく
そうですね。たぶん『Eric.W』かそのくらいの。その時はまだかなり大澤さんも糸を張ってる状態というか、まだしっかり活動してる感じだったんですよね。
そうですね。でも難しいですよね。やっぱり。24歳迄で世の中出ていく人達って、それぐらいまでに勝負が決まってたんですよ。あの世代って、僕らの時代は
そうですよね
今のOffcial髭男dismとか、クリープハイプぐらいからは20代後半勝負になったんですよね。ワンオクロックとかもそう?結構大きくなったの遅いじゃないですか?だけど、僕らの頃って、いわゆる世の中に出て天才だ、時代の寵児だって言われる奴って、24歳までに世間に出れてないとダメって、何かそうゆうの、あったんですよね。
そうですね。みんな21~22歳ぐらいではもうCD売れちゃって、もう一つ結果出してるみたいな時代でしたね。あの頃は
そう。だから僕がCDデビューしたのは21歳ぐらいで。そもそもが少し遅かったり、大きなプロモーションがあったわけじゃなかったので。その時を、大人抹殺の時を、最後と想って賭けるしかなかったでしょ?やっぱり。その24歳が最後、もう人生の最後だと思ってました。だから面白いですよね。やっぱあの時って、若いって思い詰めるんですよ。そんで24歳で、それでおばあちゃんは結局助からずに死んじゃって。糸も切れて。バンドが終わる訳じゃないですか。人生の全部がいきなり無くなるじゃないですか。
バンドが終わるって、またそこで解散みたいな話に?
みんな抜けちゃったんで
大澤さん以外は全員?
そう、お姉ちゃん(阿部)だけ残ったんですけど、阿部さんはその当時、とある某バンドのドラマーと恋をしてたので、幸せになりなって僕が抜けなさいっつって
なるほど
こんな後処理みたいなのに付き合わなくていいって。ほんならお姉ちゃんそこでついては来なかったけど、ずっとサポートしてくれて元気?っていつも連絡くれてたし、そういう人ですよ。
そうですね。それが今でもね
でもやっぱりそこで僕、やらかすわけですよ。やっぱり糸が切れて24歳までだと頑なに信じてやってきてたから。おばあちゃんのことがあったんで。そんで、まあ、自殺未遂明やらかすわけですよ。若気の至りで
そうなんすね
しかもあれやる時って、超全然、病んでないんですよ 笑
へえ
普通に朝ごはん食べて、もうあと切腹するだけやなと。切腹で死のうとしてたんで、だからあとは行くだけやなぐらいです。わかります?宇宙飛行士は Go for launch. Three, Two, One,Zero.Ignition starts, Lift Off!! の状態なんですよ。打ち上がるみたいな。自分が 笑
いつでも『すっ』みたいな 笑
そうそう。ただ、そんな興奮ってないんです。『ふう。ふう…。ふっ。』みたいなんやったらまだ救われるんだけど『いやぁ。さあ行きますか。人生これで閉じて、じゃあ俺もカートコバーンだ』と思いながら 笑 ほんとそれぐらいのノリです。全然売れねえだけのシドビシャスだと思ってましたね、自分のことを 笑 でも、『さあ。刺すぞ』って時に、僕のPHSがプルプルプルって鳴るんです。
ほう、ほんとにここまで行ったんですね。
行ったんです。本当に突きましたもん
マジですか
それで、PHSがプルプルプルって鳴って、パッと見てみたら『あべこ』って出るんです。阿部佳小利さん。朝の6時7分ですよ。
普通そんな時間に電話してこないですもんね
6時8分かな。何かその辺りでかかってきて『はい』って出たらお姉ちゃんが『いや。ごめんね。朝から』って。『なんか、架けないかん気がして架けた』って
へえ。すごいですね
『ああ、うん、切腹しようとしてた。』って
普通人生であんまりそういう電話も聞かないですからね
で、それで『あ。ごめん。やめるわ』って。それで僕、今生きてるんですよ。
だけどその電話を取って、そのやめるわっていうのは、なんか『ふっ』っとなったんですか。その大澤さんの頭の中で、何かこう感情的に言うと
たぶん変な話ですけど、もうはっきり言って闇の感情とかなくて、俺だけのもんじゃなくなったので、その死は
なるほど、うーん
うん。じゃあ別に、なんかもう『こうで、こうなって、何とかのニュースに載って、何歳男性がどうでこうで』ほんで『その関係者の人が言うには』とかそんなんでしょう。もう全部パン、パン、パン、パンと浮かぶわけですよ。その日なんとなく目に入って『いやーね。切腹なんて』って言われて終わるだけの人生が見えちゃったんですよ。自分の中で。
うーん、なるほど、まあある意味そういう虚しさみたいなものというか、それでいいのかなみたいな。なんでしょうね。
そう。あと、なんとなくこういう変な宇宙人みたいな人がまだ世の中にいるうちは、やろうかなって
ああそうね。その阿部さんの凄さというか、面白いですね、そういう話って、何かこうオカルトでもなければ、なんでしょうね。こう虫の知らせというかね。
不思議ですよね。これはお姉ちゃんのインタビューの回でぜひ聞いてみてほしいです。僕も分からないんで。不思議なんですよ。なんであの時間にあの人、電話をしたのか。でもお姉ちゃんってそういうとこある人なんですよ。だから僕はあまり本人に言うとまた何かこうマウント取られちゃうんで。実の姉みたいなもんなんで、もう嫌なんですけど、お姉ちゃんがいるから、ユウテラスに帰って来れたのはあるかもしれません。原とめいまるだけだったら別のバンド名でも良かったかも?笑 冗談です 笑
なるほど
うん。でもお姉ちゃんがいるから必然的にユウテラスだった気がします。はい。
それ面白いですね。いやちょっとその話。その辺は今度、原さんと大澤さんの2人のインタビューの時に聞こうかなと思ってたんですが、いやそれも面白いですね。ちなみにその場で切腹をそこで止めて、またバンドに復帰していくんですか?それで
そう復帰した時に、要するにさっき話してたような人たちに出会って行くんですけど、そうそう奥村さんも。んで、めいちゃん。まだ『まる』はいなかったんですけど『めい』は元々狂うほどユウテラスのライブに通ってくるファンの子だったです。
そうなんですね
そうそう。もう本当にユウテラスと言えば通ってくるって
もうどこにでも来るぐらいのそういうようなお客さん
レッドホットチリペッパーのジョンフルシャンテがそうだったじゃないすか。元々レッチリの大ファンの追っかけなんですよね。あの人
それがメンバー入りしてキャプチャーみたいな
そうそうそう、なんならバンド一番になっちゃったみたいな。でもまあ、『めいまる』はまさしくそう。めいちゃんの方です。『まる』はねもっと後なんですけど。だからもうそこでそういう不思議な人たちにその後出会っていくんです。
だからそこをまたきっかけに新たな第2章って、言い方変ですけど、新たな航海の出会いがまた出てきて、活動が続いていくみたいな感じってことっすね。
そう。でもあったと思いますよ。『大人抹殺』なんていうアルバムを24歳で作って、自分が大人になるわけにはいかないっていう 笑。若さがゆえですよね。そもそも杞憂だった訳で。だって大人になんかなってないでしょ?なりました?僕、全然なってないんですよ。
感覚がね。ずっと21歳ぐらい
でしょ?もちろん大人の機微は多少あるけど。やっぱりずっとロックンロール少年以外の何者でもないみたいな
バンドと関わってこういうことをやっている人って、やっぱ大人になりきれない、頭がいい人はね。辞めていくんですよ。早いタイミングで
そう。だからもう残った奴の中で、誰が頭がいいっていう言い争いしてるみたいな 笑
そうそう。バカの中だけの頂点。結果から見るとバカだけどな。っていう
そうそう。僕らみたいなIQすら測れないくらい馬鹿な連中が肩を寄せ合って、どっちが偉い?みたいな喧嘩するんですよね 笑 そんな超天才とか天才なんかはとっくに辞めてますからね。
そうそう。早い人はすぐ気づくんです。わかります。
でも、だからやっぱ若いってそういうことじゃないですか。文責ってあるじゃないですか。文、発言の責任。それを取ろうとしたんじゃないですか?大人抹殺って文言の。だからまさしく三島由紀夫の自害みたいな状態になってました。
なるほど、その精神状態ってやっぱりそうならないと、側から見る限りは全く分からないというか、自分の腹にこうね、刃物を突き刺すその瞬間っていうのはね、俺はないんで、あれですけど。
いや、でもやっぱり三島由紀夫さんが切腹を市ヶ谷の自衛隊基地でね、亡くなられたでしょ?あれを知ってた分だけに。うん。僕、三島由紀夫さんが大好きなので。本も。だからそっちに至ったんだと思うんですよ。
なるほど
海外育ちで。賛美歌を身近で育ったんですけど、僕はいじめられっ子で、逃げ込んでる先が教会だったので。いつもその賛美歌を歌っているみんなが守ってくれてたんです。別にクリスチャンって訳じゃないんだけど、田舎ってありますよね。宗教は別にないねんけど、なんとなく虐めらっ子が、そこに身を寄せてたり、通ってたりするとか。
そうですよね。だからカトリック系の保育園とか行ってるとね、賛美歌歌ったり、ご飯の前にお祈りしたりするのが習慣というかね、普通にねっていうところあると思うんです。
ただ、聖書を読んだことがない奴で通ってた奴とか、めっちゃくちゃいますからね。だからでも、そういう意味では切腹っておかしかったんですけど。
ははは。でもそこは日本人は、やっぱりそういうとこなんじゃ
だから覚えてるのは、最初に先が当たったチクっていう、あの寒い痛み、鈍い寒い日本酒の...あの、分かりります?吟醸じゃない、いわゆる日本酒の安酒のちょっと何かお神酒とかに使えるような、ちょっと味の濃い日本酒のような痛みとお姉ちゃんのプルルと声を覚えてます。
なるほど、やっぱりそこの記憶になってるのは、逆にそういうところなんですね。
そうそう。痛み?とゆうか、痛かった?というよりかは、その鈍い日本酒のような痛みの感覚。ちょっと先が入る感覚。痛みというか、感覚は覚えてます。
いや、すごいっすね。ちょっと第一章はここまでにしときましょう。
はい。タバコ吸いましょう。
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